2022年7月、岡山県津山市のブドウ農家である権田和朗氏が主体となり、とあるクラウドファンディングがCAMPFIREにてスタートした。その内容は、マスカット1房購入につき初なりシャインマスカット1房を子ども食堂へ贈る(1マスカット1ギフト)ものであり、今までのクラウドファンディングにはなかった新たな試みが注目されている。
このプロジェクトの軸として参考にしたのが、贈与の原理と世界の成り立ち、我々の生きる意味について論じた書籍『世界は贈与でできている』。今回は、その著者であり哲学者・教育者でもある近内悠太氏へ、「贈与とは一体何なのか」「日本で贈与の文化が広がるために必要なこと」についてロングインタビューを行った。
【贈与とは何物か】
下山(以下、下):まず今回のインタビューを進めるにあたり、近内さんが考える贈与とは何物か、贈与の定義を詳しく教えていただけますか?
近内さん(以下、近):僕の考える「贈与」の典型例は、友人や先輩から言われた何気ない一言であのときすごく救われたなって思ったときに、その友人に「前に一緒に前に飲んだとき、ポロッとこうすりゃいいんだよ!と言ってくれたことでものすごく心が軽くなって救われた、ありがとう」ってやる気満々で言ったら向こうが、「そんなこと俺、言ったっけ?」というようなことだと思っています。ここには親から子への愛といったものも含まれます。愛も典型的な贈与です。その愛を受け取ってくれた人が現れて初めてそこに愛があったことになるのです。
要は「あなたから受け取りました」と認識する主体が現れたときに、“僕があなたに何かをあげていたことになった”という事後的で遡及的な構造を持つやりとりのことです。本人は自分がそんなことしたことすら気づいてないけど、「あなたからわたしが受け取りました」という善なるもの、よきもの、美しいものがそこに渡された構造なるものが僕の贈与の捉え方ですね。
下:受け取った側が、何かしらのアクションをしたときに初めてその贈与という行為が成り立つということでしょうか。
近:受け取りが「こういうふうに気付いた」という気付きをアクションに入れるのであればそういうことですね。それまで受け取った側も気づいてなかったけれど、「そういえば・・」とふと思い出す経験ってありますよね。何かそういうふうに何か過去の記憶の中に埋もれていたものが、急に現れるというような構造があるのではないか、というのが僕が論じている贈与の構造ですね。
下:そうした観点からいくと、今回のシャインマスカットの話も、子どもたちは誰から受け取ったものかわからないけれど、後々になって何か美味しいマスカットが届いたなとか、昔こういう美味しいものを食べた経験があったなあとか、思い出したりとかすることが今後あるのかな、と思います。
近:そのときに、記号的なブドウの味じゃ駄目なのです。あのときの・あのシャインマスカットの味という、「ここの」「この物」「誰からの」というか、哲学で言う「固有名」で思い出すことが大切です。曖昧なものだと贈与って発生しづらいと思いますし、ただモノをあげるという行為だけでは、再分配とか市場に似たものになってしまうと思うんですよね。たとえば、「お米を10㎏もらったから、5㎏返す」といった数値化が贈与を阻んでいる気がします。
下:ギブアンドテイクのようなビジネスの関係では、どうしても数値化に動きやすい傾向がありますね。
近:たとえば、誰かからもらったプレゼントの値段って気にされたことありますか?
おそらく値段を気にするのは、「相当額のものを返さなきゃ」って思いがあるときです。これは、贈与じゃなくて交換なんです。結婚のお返しで「半分返し」があるように、ここでも10万円のものを貰ったから5万円返せばいいんだと、数量が分かるから安心するのです。何が何でも届けるっていうわけではなくて、何かもらったからとりあえず返す。そうすると、ゲームから降りるというか、交換したから責任を果たしたでしょ、という感じがしてしまうんです。つまり、増殖しないんですよね。何かの変化が生じる、成長が生じるっていうのがないですよね。必然的に10万円もらって5万円返さなきゃいけないっていうのは、「その先がない」ですし、何をどれくらい返せばいいのかがわかるから安心はできます。ただ、いい意味で謎めいた信頼関係みたいなものは生まれにくい気がしませんか。
持田(以下、持):確かに、貸し借りの概念ですよね。貸し借りのほうが「行動させやすい感」があるのかな、とは経験上感じますが…。近内さんの書籍にも書いてある通り、贈与にはタイムラグがあって、送ってもらった当人にはもう返せないからこそ、次に返すっていう考えが成り立ちやすいですが、さっきのお返しの考え方だと、相手がそばにいるしタイムラグもないから贈与とは言えないですね。
近:文化人類学などで議論されてきたいわゆる正統派な贈与論でいうと、これは社会システムなんです。たとえば、かつてのポリネシアの人々は、贈り物として手渡される品物には「ハウ」という霊が宿っているという信憑を持っていました。この共同体ではハウは元の所有者の元に戻ろうとする傾向があるとされていました。だから、「贈り物を溜め込んでおくと呪いにかかる」という言い伝えがあり、贈り物がどんどん人づてに回っていくわけです。溜め込んでおけないわけですから。これは、共同体を維持するためのライフハックなんです。贈り物を贈るという儀礼や儀式を通して、他者と確実に接点を持つからです。贈与という営みを行っていくことで、共同体のメンバーが孤立せず、関係性が生まれ、会話が生まれるという意味において贈与はライフハックなんだと思います。しかも、退蔵しないから、富がぐるぐる循環していくわけです。
持:ただこうしたシステムは、現代では機能しない気がします。
近:こういったシステムが機能するのは、単純に貧しいからなんですよね。貧しければ1人でご飯食べるなんてできないわけですよね。誰かと一緒に食べるとか、お酒も誰かと一緒に飲むとかすると、これは共有財であるとの前提が持てます。そう意味では、現代で同様のことを伝えても、ピンとこないのはそういう理由ですね、
持:安全要件が違いすぎるということでしょうか。
近:はい。今は、東京都全体が「明日のご飯が無いくらい貧しい」というレベルのことはないし、共同体の規模も大きすぎる。かつての村のような共同体は、大体150人ぐらいが安定的だという説があります。
文化人類学者でロビン・ダンバーという研究者がいますが、彼は、僕らの脳にとって150人ぐらいの規模の共同体がマネージできるサイズの上限だというようなことを言っているんです。サルや他の類人猿の脳の新皮質の大きさと集団のサイズに相関関係があることを見出して、その比例関係を人間の脳のサイズに当てはめると、一人の人間が関係性を気づくことができる人数はだいたい150人だということが分かったわけです。また、この説の傍証として、日本でいう年賀状に相当するクリスマスカードを、「何人くらいとやりとりしていますか?」と彼が聞いて回ったら、大体150人から200人ぐらいになったと。もろもろのデータを調べると、どうやらかつての我々は150人ぐらいの共同体の中で、あの人は「こういうしたらしいよ」とか「あの人は危ないよ」と噂話をして、村の規則に反するやつをあぶり出していたわけです。
だから現在の僕らも、悪い噂はすぐ広まりますが、いい噂はあまり広まらないというか、すぐに消えちゃう。悪い噂がいつまでも残るのは、危険因子がいるっていう情報のほうが価値があるからです。
持田:確かに、150人というのは納得できる数字です。だから日本で同じ社会課題のニュースを聞いても、目の前に現実として捉えられないんですね。目の前にいないから、どこか遠い国の話なのかな、みたいなところがあります。
近:それでいくと、分かりやすい贈与の規定は、お金で買えないものはどこからやってくるのか、どのようにして私の元に届くか、買ったのでなければ誰かから送られたしかあり得ない、それが一番語弊の無い表現だと思います。
持:みんなどこかで体験しているということですね。近内さんが執筆されているnoteの中で、「差出人になりたい人が多い」ということが書かれていて、私自身は如何様にもなれるのでは?と思ったのですが、そうではないんでしょうか。
近:差出人になりたい人が多いのは、良くも悪くも「気持ちがいいから」だと思います。たとえば、料理を作ったときに、自分で食べる喜びよりも、大切な誰かに先に食べてもらったほうが喜びが大きかったりするじゃないですか。そういうもので生きた心地がするのはすごく大きいような気がします。
持:人間の本質的にそういうところがあるってことですね。今回のクラウドファンディングのオーナーである権田さんも、農園の作業を肉体労働的にやっていく中で、誰ともコミュニケーションを取らないと、「何のためにやっているのかわからない」とおっしゃっていました。そういう意味では、今回の子供食堂のプロジェクトで、子どもに与えることを通して農業を続けられるっていうところで意義があるのかなと。
近:ちゃんと受け取ってくれた人がいると、やっぱり僕らは生命力を貰えるんでしょうね。やる気というか、使命感がすごく出てくる。これで幾らになって利益が出たっていうだけでは、僕らはさもしいなと思ってしまうのは自然な感情だと思います。
持:上場して資本主義のシステムに巻き込まれてしまうと、売り上げを伸ばさないと話になりませんが、逆に中小企業とか、その資本主義の枠組みからはちょっと外れたところにいる人たちは、率先してそういうことがやれるのかなあと思っています。そのときに「ちょっと簡単にやってみよう」と思える仕組みがあれば、チャレンジする人も増えるかなという感覚があります。
【クラウドファンディングが日本で根付くには「愛」より「恋」】
近:クラウドファンディングは、日本でも根付いている感じなのでしょうか。
飯島(以下、飯):やっぱり欧米などに比べると、日本では規模や動きが全然違います。アジアでも、台湾では結構クラウドファンディングが商業的に活性化していて、300万の投資をしてPRを仕掛けて1000万を回収するといった事例もあります。そこに「応援の度合い」がどれだけあるのかといえば、まだ日本の方がエモーショナルな部分が残っていると思います。日本ではクラウドファンディングが2011年頃に入ってきたので、震災復興とかコロナを乗り越えるみたいなところでも活躍したこともあり、そういったシーンをメディアが取り上げてくれたのも大きいです。
近:先日、こんな話を聞きました。クラウドファンディングの額はヨーロッパなどの国に比べると少ないのですが、YouTubeのスーパーチャットにおける投げ銭額では、世界の上位10人ぐらいが日本人の配信者だといいます。ここの違いは何なのかっていうと、多分クラウドファンディングってイメージが、人々への「愛」なんだと思うんです。一方スーパーチャットは、「恋」であり、推しの感覚です。やっぱり、そういうときに「これは愛の精神なんです」と言っても広まりづらい。立て付けが「博愛の精神」「ボランティア」であると、やっぱり僕らは距離を感じてしまう。
だから、「シャインマスカットに恋をしてしまって、これをみんなに食べてもらいたい」のであれば、それはすごくメイクセンスというか。クラウドファンディングでも、「恋っていう比喩」「恋というメタファー」があれば、「それくらいほれ込んじゃったんなら、じゃあしょうがないね」となるんじゃないでしょうか。
三島由紀夫も言っていますね。「日本における情緒同調的表現の最高のものは、「恋」であって「愛」ではない」と。万葉集も愛より恋なんですよ。仮説ですけど、日本はやっぱり推しの国なんですよ。
持:シャインマスカットプロジェクトも「愛」ではなく「恋」というアプローチにしたら面白かったですね。
近:クラウドファンディングとは少し違うのですが、「おてらおやつクラブ」という仕組みをご存知ですか。お寺というのは、ものすごく檀家さんからお供え物がたくさん来るわけです。10年ぐらい前に、母子家庭の親子がお金が無くて餓死をした事件を見て、「お寺として何とかこういう人たちを救えないか」と考えた時に、檀家さんからもらっている物をお裾分けしちゃえばいい、と思いついた仕組みです。
「おそなえ・おさがり・おすそわけ」というキャッチコピーも面白くて、現在は宗派を超えた1800の寺院がこれに賛同していているほか、銀行からの寄付もあるそうです。
このプロジェクトは、システムとして本当によくできていて、どこにも「私があなたにあげる」っていう明確な贈与者がいないんです。檀家さんは、「お寺に先祖代々お世話になっている」と仏様に差し出す。お寺の人たちは「檀家さんから預かったものを処分するのはしのびないから、お裾分けしてもよろしいですか」と言う。檀家さんは信頼しているお寺さんが言うなら、と納得できますし、もらった方も母子家庭も「お寺さんがくれたから」って思える。私があなたに身銭を切って、自己犠牲の精神で何かを差し出すという発想の人がどこにもいないんですよね。そこに物語があるだけで、「うまい立て付け」があればちゃんと循環を生み出すことができるんです。
持:お裾分けの話も、先述したお返しの話も、現在は取引が形骸化しているものも多いですから、仕組みの中で乗っからせてあげれば、こうした取り組みが広がる可能性はありますね。
【子ども時代に大切な経験は「応答してもらえた」という実感】
下:贈与をするなかで「シェアせずにはいられなかった」という気持ちが生まれるのは、自分がそういうことを過去にやってもらったとか、何かそういう経験があるからこそ自然と出てくる感情なのでしょうか。近内さんは教育者であり哲学者ですが、子ども時代にどのような経験・体験が大切だと思われますか。
近:しっかり「応答」してもらったという経験が大事なんじゃないですかね。授業中ポロッと質問したら、「それ面白いね」って言ってもらえる。「そういう質問はしないでください」と言われるのではなく、「それはいい質問な気がするな」と応答してもらえる。その時先生は、別に何か具体的なコンテンツを返してくれているわけではないのですが、受け取ってもらえた、返してもらえたという感覚はすごく大切だと思います。「私はここにいてもいいんだ」「何か承認してもらえた」ということが、子どもにとってすごく大きな価値があります。
持:確かに、そういう経験は日本では少ないですね。海外の子どもは、多少ズレていても積極的に質問してくれる気がします。
近:教えている側も、いち早く成果にたどり着かせなければならないみたいな強迫観念はあると思います。学生時代、塾の先生に質問をしたとき、「これはテストに出ないから」と言われて愕然としたんです。先生から問いを止められたっていうのはショックだったというか。
持:逆に、大人がちゃんと応答してくれたら、子どもたちは伸びるってことですかね。
近:自分で考えて言ってみて、相手が面白いね、そうじゃない、と言ってもらえるやり取りが大切だと思います。ただあまりにも変な方向に行ったら止めてあげる、くらいの気持ちで構えておけば、子どもたちは自然と探求していくと思うんです。
持:大人がうまくハンドリングできれば、子どもたちは自分の中の好奇心を育てていくことができますし、知識や学問にもっと興味を持てるようになれば、学ぶ理由も出てくるのかなと思います。
近:子どもが缶詰カップの缶詰で、そこに知識やコンテンツを詰めてくっていう発想は、僕は違うと思っています。そうやると、「いち早く正解を求める」「規格化された製品が出来上がる」みたいになってしまい、教える側も教わる側も苦しくなります。
持:答えのない問題に対して日本人が弱いと言われているのは、答えがあるところに対して最適化されている教育期間を過ごしているからなんですかね。
近:僕は、「答えのない問い」というよりは「答えが用意されていない問い」だと思っています。本当は答えがあるんだけど、今のところ誰もわかってないっていうだけで。相対性理論もアインシュタインが見事に正解を見つけたわけですよね。ただ現代において、誰かが答えを持っているんでしょ、早く教えてよってニュアンスは否めないです。学校のテストも、所詮は人間が作った問いなわけじゃないですか。でもアインシュタインが作り上げたのは、神が用意した問いに対する解答だった。
こういうふうになったのは、やっぱり受験産業と就活産業が原因だと思いますけどね。なんとかアドバイザーとか、何とかコンサルタントとか、正解らしきものを持っているふりをするじゃないですか。私たちは「受験と就活でこう振る舞えばいい」というマニュアルを、本を読んだりお金を払ったりすれば簡単に得られます。それをいち早く飲み込むのが正解ということになれば、自分の頭で考えるのは、到底無理な話ですよね。
持:そうですね。よく就職活動で「服装自由」とか言われますけど、全然自由じゃない感じもそれに近いですね。
近:ダブルバインドにかかると、「じゃあ、もう従うよ」と心が折れていくのでしょうね。
持:ダブルバインドを子ども時代から体験すれば、「余計なことはしない」「自分から積極的に行かない」みたいな人間になりますよね。それで言うと、やっぱり教育した上で大切なことは「子どもたちをダブルバインドにかけない」とことですね。「皆さん意見を言いなさい」と言うわりに、自由に言うと「そういう意見は聞いていません」なんて言われるのはまさにダブルバイトであり、従うしかなくなってきますよね。
投資家であり大学教授でもある滝本哲史さんがいいことを言っていて、彼はどんなに大学生からの質問がずれていても「いい質問だね」って応えるところから始めるんだそうです。
近:なるほど。大切なことですね。そうか、最初の話に戻りますが、「10万円の結婚祝いには5万円返せばいいんでしょ」っていうのはすごく安心感があるんです。私はこれを返したいとか、これを返すんだ、という意思がないのは、「これが正解なんでしょ」っていう投げやりな態度とも繋がるんですよね。それはまさにその子ども時代の経験から最適解に陥っているから、そういう行動を取っている可能性はあると思います。
【”本当の意味での贈与者”に出会う機会が無くなっている理由】
下:では、次の質問に行きます。「経済的に余裕がある」というのをどう定義するかにもよるのですが、最近では取引になりがちで、本当の意味での「贈与者」に出会う機会がなくなっているのは、何が問題なのでしょうか。
近:家族と他人しかいないからじゃないですかね。仲間とか友人とかっていう遠いのか近いのかよく分からない人間関係の共同体が無いからだと思います。電車に乗っていて、急にトンネル抜けたら海が見えた時に、「ほら!海!」って言えるのは目の前で聞いてくれる人がいるから。つまり、僕らの行為や言葉というのは、相手によって引き出されているんですよ。実は贈与というものも、よくよく考えてみれば相手がいるからできるんです。子どもがいるから子育てできるわけですよね。子どもがいるから父親になれるわけで、父親になる準備が完全に整ったから子どもができるわけではありません。
持:なるほど。今回そういう人が子ども食堂の子どもたちに出会うことによって社会的な概念が育っていけば、そういうところに対してもアンテナが立つようになるのかもしれません。
いつもは多少お金があって毎日飲み屋で飲んでしまうサラリーマンも、子どもたちの置かれた状況が分かれば、そのお金の使い道を「ちょっとどうしようかな・・」みたいな気持ちになる感じですかね。
近:一度その食堂に足を運んでみるだけでだいぶ変わるんじゃないかなと思います。こういう場所なんだ、こういう感じの子どもたちなんだな、っていうのが見えたら、自分が飲む一杯のお酒の1,000円をこっち(子ども食堂)に入れる、みたいな。クラウドファンディングだと、やっぱり手触りとしてちょっと距離がある気がするので。
持:リアルでも知る機会があれば、それに対して何かが始まりますが、そもそも知らなければ、リアリティを持って考えることもない。そう考えると、やっぱり新しい贈与者に出会いきれない感じはあります。
【日本人の軸は”遊び心”と”恋のニュアンス”】
近:今までの話をまとめると、今日の話の縦軸が「応答してもらう」っていうところにあるのかもしれませんね。僕らは他者からの「応答」をすごく求めている。スーパーチャットで投げ銭すると、配信者に「○○さんスーパーチャットありがとうございます」って応答してもらえる。やっぱりそれは、別にプライベートで会えるとかじゃなく、応答してもらえたことに価値があると思います。言葉を返してもらえた。私がここに居ることを確実に捉えてもらえた。ただそれだけなんですが、私たちはそういうのがないと生きていけないんです。自分の一挙手一投足が誰かに応答してもらえるだけの可能性があることに、だいぶ僕らは安心感を覚えるんだと思います。
下:SNSやライバーが流行っているのも同じような理由なのでしょうか。
近:投げ銭とかもそうですが、「投げる」という言い方をしますよね。一方的なんだけど、自分が今この人のいいねの数を上げることができたとか、この人のレベルをちょっとでも上げることができた、というのは応答感があるんじゃないでしょうか。
持:取引と贈与と応答があったとして、大学生のボランティアであれば、「ありがとう」という言葉が欲しくてやることもあると思いますが、そういう見返りを求めてやったときは贈与じゃないですよね。やっぱり人間の8割9割は応答や、取引のほうが好きだから、こういう贈与の仕組みを広げていくには、クラウドファンディングでも仕組み・見せ方を工夫していかないと広がらないってことですね。
近:ボランティアで「ありがとう」って言ってもらいたいのは、すごく相手を道具として使っていますよね。自分を承認してもらうための「手段」として使っているというような。それが例えば、近所で小さい頃に一緒に遊んでくれたおばあちゃんが、すごく足腰が弱くなって買い物になかなか行けないから一緒に行ってあげるというのであったら、これは贈与だと思うんです。それが、「被災地のお年寄りに元気を」というような、すごく偽善の匂いがするのは、自分のモチベーションを上げるために応答だけくれという、道具に使っているから何かモヤモヤしたものを感じる。だからそれって恋になってないんです。愛は不特定多数の人を愛せますが、不特定多数の人を恋しているというのは意味わかんないじゃないですか。恋は、必ずあなたと私なんですよ。
持:日本人の軸は、愛ではなく恋だったってことですね。
近:日本人は、立て付けとして「愛なんです」とか「真面目にこういう社会問題があって」とやってしまうと、どんどん引いてしまう雰囲気になります。だから、こういう社会問題を解決するんだったら「遊び心」で作っちゃうのも一つの手です。恋と遊び心。
持:ゲーミフィケーション的なものを持って広げていくのもありですよね。あと、高校生とか大学生だから応援しようみたいな雰囲気もあるから、誰がリーダーシップを取るかというのも重要だと思います。そういう意味では、今回これを仕組み化するときには高校生であるうちの子どもや周りとか友達から始めていくと、また違う広がりがあるかもしれません。
近:遊び心とまた違うかもしれませんが、「注文を間違える料理店プロジェクト」をご存知ですか。これは、認知症の方が店員として料理をサーブするので、注文とは違う料理が出てくることもあります、ということが前提とされているレストランなんです。「まちがえちゃったけど、まあ、いいっか」というコンセプトだから、「本当違うのが出てきた、でもこれでいいです」となるわけです。当然、社会問題だから茶化すわけではなくて、ちゃんと専門家も入れながら、コンセプトを作ってイベントをやっているそうです。この根底にあるのは、やっぱり遊び心ですよね。これを、認知症のために、皆さんが困っているからやるんです、というのでは空気感が全然違うと思います。
持:真面目だと行きづらいですしね。クスッと笑えるジョーク的なものがあるといいですよね。
近:一神教の文化圏でかつ愛の文化圏なら、「真面目に社会問題を解決します」というコンセプトでも多分いけると思うんですよね。逆に日本は、そういうのを入れると、冷めたというか、ちょっと引いてしまう。遊び心があったり、恋のニュアンスがあったりすると、安心して「私もちょっと何かを差し出します」」となると思います。
持:空気感を気にする国民性があるから、雰囲気が緩い方がみんな参加ですよね。
近:僕がよく言うのが、日本では市民革命はできないけど、ええじゃないかとか打ちこわしとか、一揆はできる国なんじゃないかということなんです。何か明確な目的がなく、ただもう鬱積したものが溜まって、やけになって祭り感覚で何かぶつかっていった。現代でも、日本人は「天空の城ラピュタ」という映画がテレビ放映される時、あるシーンでアニメの登場人物が「バルス!」と唱える瞬間に一斉にTwitterでも「バルス」とツイートして、Twitter社のサーバーを落とすっていうただの遊びをやったりするんですが、西洋から見ると、これは何かの政治的なメッセージではないのか、と見えると思います。日本人は、お祭りみたいなことに対して、一斉に同じことをやるエネルギーはあると思います。
しかも1人1人が意図を持って参加しているわけではない、その場に行ったらみんなが同じようなことをしていて、体がポップになってきた、生命力がドバッと流れてくるみたいな、そういうものが日本の祭りにはあると思っていて、そういう感覚は「贈与」に近いと思いますね。
持:ロジカルというより、人間の本質的なものに近しい感じなんですかね。
近:良くも悪くもですが、日本ではそういう仕組みのほうがうまく回るような感じがします。日本で寄付が根付かないのも、この理論で語れると思います。寄付は愛ですが、僕ら日本人は恋で動くからです。シャインマスカットのプロジェクトも、もう少しコンセプトや遊び心的なものが入ると、ものすごく応援したくなると思います。
【最後に:日本人はなぜ学ばないのか?】
持:最後にひとつだけ質問させてください。最近、「未来人材ビジョン」が発表されて、日本人は社会人になると全く勉強していないというデータが経済産業省から出たんですが、日本人って大学に入るまでは結構勉強してきたと思っているんです。ここで、近内さんへ質問したいのは、なぜ社会人になると、みんな学びを止めちゃうのか、ということです。僕はインセンティブがないからではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。
近:単純に、小中高で学んだものが面白くないからじゃないですかね。先生が言ったことを覚えて吐き出すゲームなんて全く面白くない。特に定期試験は暗記ゲームのようなニュアンスが強いですから、学ぶことに対しての動機づけが何もないんだと思います。
持:なるほど、ありがとうございます。そんな社会人の皆様に、近内さんが「人生のうちに読んだ方がいいと思う本」はありますか。
近:100冊を手に取って面白いと思うものを何でもいいから読んでください、とよく僕は言っていますね。全部読まなくていいからパラパラっと読んで、これ読めそうって思ったものを読むという。100冊手に取れば1冊ぐらい絶対にあなたが読むべき本というものが入っているはずです。自己啓発本だけのコーナーで100冊取っても同じようなことしか言っていないので、なるべく偏らないようにするのがおすすめです。
なかでも、一番薦めたいのは、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』ですかね。ただし高校までの理科をちゃんとわかっていないと苦しい本ではあります。それでも、読んでおいて損はありません。進化論の話なのですが、生き物が好きだったら多分読めると思います。
僕の尊敬する先生が、よく「ドーキンスがこの前こう言っていて…」「ドーキンスはいいぞ」と言っていたので、『利己的な遺伝子』を手に取ってみたら、本当にこれはいい本だった。僕はもともと理系出身なので、人間をただの動物だと思って眺める眼差しがとても大事だと思っていて。さらに言えば、動物は突き詰めればモノ、物質であるということです。ただ、人間が他の動物たちと違ってユニークなのは、サピエンスは身体的な進化じゃなくて、環境を変えることができる点だと思っています。それが文明と文化を作り出したわけです。
持:ちなみに高校生や大学生にもドーキンスはおすすめですか。
近:ドーキンスが読めるように勉強しましょう、ということですかね。
持:さて、今回のシャインマスカットプロジェクトのオーナーである権田さん、最後に何か一言ありますか。
権田:「お金で買えないもの」に着目して、周りの人たちが応援したくなるような、そして応援を受けた側も幸せになるような、そういう仕組みが作れたらもっといい社会になる、というお話を伺えたのがとても勉強になりました。
下:これで本日のインタビューは終了とさせていただきます。ありがとうございました。
〈『世界は贈与でできている』著者 近内悠太氏プロフィール〉
1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。2020年3月に『世界は贈与でできている―資本主義の「すきま」を埋める倫理学』で著作デビュー。
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